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node: muhammad_ali
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title: "ムハンマド・アリー朝"
lead: "ムハンマド・アリー朝は、1805年にオスマン帝国の軍人ムハンマド・アリーがエジプト総督となって開いた王朝で、国家主導の近代化と対外拡張を進めた。後継者たちの借款は英仏の財政管理を招き、1882年のイギリス占領で実権を失った（王朝自体は1952〜53年の王政廃止まで名目上存続）。"
published: 2026-07-10
updated: 2026-07-10
image_file: muhammad_ali_dynasty.jpg
image_source: "https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Muhammad_Ali_Mosque_1.jpg"
image_author: "kallerna"
image_license: "CC BY-SA 3.0"
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## 概要

1805年、フランス軍撤退後の混乱の中から、オスマン帝国の軍人ムハンマド・アリーがエジプト総督（ワーリー）として頭角を現した。1811年にはカイロのシタデル（城塞）でマムルークの指導者たちを虐殺し、その勢力を打ち砕いた。以後1882年のイギリス占領まで、この王朝がエジプトの変革を主導した。

## 主な動き

ムハンマド・アリーは国家主導の近代化を推し進めた。ヨーロッパ式の陸海軍、政府専売制、輸出作物としての長繊維綿、新式学校とヨーロッパへの留学生派遣、ブーラークの印刷所などである。対外的には1820年代にスーダンを征服し、アラビアやギリシアでも戦い、1831〜40年にはシリアを征服したが、1840年にヨーロッパ列強が介入して撤退を強いられ、代わりに1841年、エジプトの世襲統治権を認められた。後継者のサイードは1854年にスエズ運河の利権を認可し、1867年から副王（ヘディーヴ）を称したイスマーイールはカイロ改造や鉄道建設などの欧化を推し進め、1869年に運河を開通させたが、その費用は巨額の借款で賄われた。

## 終わりと移行

債務危機の中、エジプトは1875年に運河会社の持ち株をイギリスに売却し、英仏による財政管理が敷かれ、1879年にイスマーイールは廃位された。エジプト人のためのエジプトを掲げるウラービー運動（1879〜82年）が副王とヨーロッパの支配に挑むと、イギリスはアレクサンドリアを砲撃し、1882年のテル・エル・ケビールの戦いに勝利して占領を開始した。王朝自体はイギリスの支配下で名目上存続し、1952〜53年の王政廃止で幕を閉じた。
